これらの肩書はマルコが歩んできた「越境者」としての軌跡であり、彼という存在を端的に表現するキーワードでもある。
「自分は一つの分野に集中することに向いてない」
周囲の友人が医者や弁護士等を目指すなか、自分自身の進む道として、マルコは新聞学を専攻。大学卒業後、友人の紹介で香港の経済新聞社に入社した。ここからマルコは越境者としてのキャリアをスタートさせた。
香港の経済新聞社では投資ファンドを担当し、その後「マーケター」へと転身。その後、再びジャーナリズムの道に戻るため、大学院で修士号を取得。『Bloomberg』の香港支社に入社し、再び「金融ジャーナリスト」として活躍した。
ジャーナリストとして働く傍らに日本語を習得し、東京支社へ異動。だが、その矢先にランニング中の怪我に見舞われる。 奇しくも怪我でランニングが出来ない状況に陥ったことが、マルコの人生を大きく変える一つの転機となった。
半年間治らなかった怪我を一度で回復させてくれた治療師との出会いが、彼を「マッサージ師」の道へ導いた。折しもジャーナリストとして働く環境への興味や情熱が薄らいでいるタイミングでもあり、自身の怪我と快復を契機に怪我の予防や治療技術への興味関心を深めたマルコは、怪我を治療してくれた先生の講義を受講し、本格的に技術を学ぶために『Bloomberg』を退社し、単身オーストラリアへ渡った。
専門学校を卒業後、地元のスポーツクリニックで働きながら、マルコはかつてのジャーナリズムの経験が自分自身のアイデンティティの一部であることに気付いた。
「『bloomberg』の素晴らしいエディターたちがいたからこそ、今の自分がいる」
金融ジャーナリストからマーケター、2度目の金融ジャーナリスト、そしてオーストラリアに渡りマッサージ師へ。異なる分野を「越境」し複眼的な視点を手に入れたマルコは、アメリカの金融経済ニュースのスタートアップ企業で再び「金融ジャーナリスト」へと復帰を果たす。
アジア地域を担当する金融ジャーナリストとして働くなかで成長の停滞を感じ始めた頃、デザインの仕事に関わる機会を得る。
「デザインは目的と役割があり“人のために”生まれるもの。それはジャーナリズムと通じる」
この気付きからマルコは「デザインリサーチャー」として新たな道を歩み始めた。
新聞学、金融ジャーナリスト、マーケター、マッサージ師、デザインリサーチャー、フォトグラファー、ストーリーテラー、マルチリンガル、これまでのいくつもの分野を「越境」したマルコは昨年、到着点となる場所『studio AKARI』を立ち上げた。
ジャーナリズムのマインドを持ち続けながらも、表に出ることを避けてきたマルコ。
しかし、『KIKITE』や『TRAIL HEAD』を通じて徐々に自身を発信するようになる。
「記事に主観が入ることは避けられない。大事なのは、その主観をどう伝えるか」
自分の発する言葉が他者にどのような影響を与えるのか、その責任の重さを学び経験してきたマルコは、慎重な姿勢を保ちながらも、この気付きと共に新たな挑戦に踏み出した。
“秒”で変わる世界に身を置く金融記者としての生活のなかで、社内報のチャリティーラン参加の知らせがランニングとの出会いであった。
初めて走ることになったハーフマラソン。21kmがどの程度の距離かも分からないが、とりあえず走るための練習を始めなければいけない。ジムで初めてトレッドミルを走った。400mで息が上がった。だが、練習を重ねるうちに、ランニングが思考を整理し、仕事から自分を解放する時間になることに気付く。
「BlackBerryを見なくていい時間が最高だった」
無事に初めてのハーフマラソンを完走後、各地のレースへ次々と挑戦するようになった。初のトレイルランニングレースは、『Mongolia Sunrise to Sunset』の 100km。70から80km地点でタイムアウトとなったが、このレースを通して出会ったランナーたちに影響を受け、トレイルランニングの楽しさに魅了された。この経験が、マルコをトレイルランニングの世界へと引き込んでいく。
50km、100kmのレースを経験し、走り始めて1年で挑戦した初100マイルは、 偶然にも2012年開催の『ULTRA-TRAIL Mt. Fuji』(現『Mt.FUJI 100』)だった。
長い下り坂を下りきった先の120km地点のエイドで、これ以上先には進めないとDNFすることを決めた。リストバンドを切った後、まだ歩くことができる自分がそこにはいた。身体を温めたら動けたし、まだ先に進めたと自分の中の甘さに気付いた。
それから12年後、マルコは同じ大会にメディアとして関わるようになった。
「10年前の自分が想像できなかった景色が今、ここにある」
かつて走る側であったマルコは、今度はカメラを構える。
走る側から“撮る”側への越境
——。
マルコは自らを極限状態に追い込むために走るという。
「やめたい、でもやめない。その先にある喜びや達成感が走り続ける理由のひとつ。自分は「速さ」を求めるアスリートじゃなく、一般人として「完走」を目指すランナー。だからランニングは自分と向き合う時間だし、自分がいかに弱いかを知り、自我を削る時間でもあるんだ」
自ら進んでストレスを自分自身にかけ極限まで追い込み、その辛い状況下の自分とどう向き合うことができるのか、シミュレーションをするために走るのだとマルコは言う。
『Fun Trails Round 秩父&奥武蔵2024』の100Km部門に出走した際には、35km地点で足が潰れたが、残り15km地点で復活。順位を落としながらも、「歩いても完走できる」「いつか復活する」確信を持ち前に進み続け、完走を果たした。
思考の整理、メンタルケア、そして自己成長。ランニングはマルコの人生に欠かせないものとなった。
「ただ走るだけじゃなくて、やっぱりときどき自分を追い込まないといけないから、たまに長い距離も走らないといけない。自分を成長させるために」
マルコ・ルイの人生は、絶えず境界を越え続ける旅だ。
彼は金融、ジャーナリズム、デザイン、マッサージ、そしてランニングという異なる領域を行き来しながら、新たな視点を獲得し続けている。
「越境」とは単なる物理的な移動ではない。マルコにとってそれは新しい文化、価値観、考え方を受け入れ、自らを変革するプロセスだ。
彼が香港から東京、オーストラリア、アメリカへと拠点を変え、またジャーナリストからマーケター、マッサージ師、デザインリサーチャーへと役割を変えてきたことは、その象徴である。そして、ランニングという行為もまた、マルコにとって「越境」の一形態だった。
長距離を走ることで、身体の限界を超え、精神の壁を乗り越える。
「自分は知らないことばかりだから。いろんなことを知って、学び続けたい」
2025年、マルコの活動拠点は日本を飛び出し、東京・高尾、徳島・神山、そしてポルトガルの3拠点へと広がる。それぞれの土地が持つ自然環境や文化の違いを肌で感じ、異なる文化や環境を行き来することで、さらなる視点の拡張を目指している。
彼の挑戦は終わらない。むしろ、その旅はまだ始まったばかりだ。どこまでも謙虚で、成長に貪欲であり続けるマルコ。しぶしぶ表舞台に上がってきた彼が、次にどんな境界を越え、どんな世界を見せてくれるのか、期待せずにはいられない。
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マルコ・ルイ
1985年生まれ、香港出身。
日本とポルトガルを拠点に活動するデザインリサーチャー、フォトグラファー。
大学で新聞学を専攻し卒業後、金融記者としてのキャリアをスタート。香港、東京、ニューヨークを拠点に10年間活躍。
2018年、日本に拠点を移し、デザインコンサルティングの分野に挑戦。2021年、コロナ禍を機に独立し『Studio AKARI』を設立。企業の事業開発や課題解決に取り組む一方で、写真撮影やドキュメンタリー映像制作にも携わる。またインタビューポッドキャスト『TRAIL HEAD』を主催。 ランナーとしてはまだ経験が浅いものの、各地のトレイルレースに挑戦中。
【主な経歴:レース】
◎2023年
Western States Endurance Run(アメリカ) 115位(24時間48分27秒)
IZU Trail Journey 248位(9時間48分50秒)
◎2024年
Anta Hong Kong 100(香港) 27位
Tokyo Grand Trail 50K 12位(10時間38分12秒)
志賀高原100(100km) 31位(17時間14分59秒)
信州戸隠トレイルランレース 35km 15位(5時間1分54秒)
FunTrails Round Chichibu & Okumusashi 108km 125位(25時間10分45秒)
古川涼音(ふるかわ・すずね)
1992年 福岡県久留米市生まれ。2016年に早稲田大学人間科学部情報科学科を卒業。
外資系データセンター企業にて営業とエンジニア職を経験した後、現職の外資系IT企業の製品サポートエンジニアに転職。
登山をきっかけに北アルプスに魅了され、より自然に近い暮らしを求め長野へ移住し、猟師の資格を取得。春は山菜採り、夏は登山、秋は松茸採り、冬は狩猟と、四季折々の自然の恵みと向き合いながら生活している。
アドベンチャーレースにも情熱を注ぎ 『NISEKO Expedition』では総合6位の成績を収めるなど、過酷な環境下での挑戦を楽しむ。
現在はカスタマーサポートエンジニアとして働く傍ら、猟師としての活動も続ける。
日々の暮らしやアドベンチャーレースの様子は
Instagram(suzu415)でも発信中。
Photography = Marco Lui